「9条がなかった時代」にあったもの

http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/120306/waf12030607080000-n1.htm

被災地のがれき処理の受け入れが各地で進まない現状に対し自身のツイッターで「すべては憲法9条が原因だと思っている」と書き込んでおり、報道陣に真意を問われ、憲法9条についての見解を答えた。橋下市長は「9条がなかった時代には、皆が家族のため他人のために汗をかき、場合によっては命の危険があっても負担することをやっていた」と指摘。



この記事を読んで、数年前に読んだ激高老人さんのブログの記事を思い出したのですが、「9条がなかった時代」におそらく確実に存在していたのは、自らは「自分のために生き」ながら、他人に対しては「皆が家族のため他人のために汗をかき、場合によっては命の危険があっても負担する」ことを要求する「愛国者」の人達ではなかったのかと思うのでした。


愛国者が威張った時代: 激高老人のぶろぐ

ところでこういう人たちは、他人に対してはお国への奉仕を要求しながら、自分たちは結構私利私欲を追求して恥じるところのない人たちなのである。そして仮に不幸にして戦争が起こった時、彼らは安全な場所にいながら若者たちに対してお国のために死ねと言う人たちであると、拙者は確信している。

お国のためにからだを鍛えた若者がいたとすれば、彼はその立派な体格のゆえに若死にしたのだ。一方「お国のために死ね」と煽った人たちのほとんどは無事に生き残った。彼らは結構「自分のために生き」ていたからである。



今は、あからさまに他人に危険や負担を追わせるために「お国のために死ね」というのは、「9条がなかった時代」に比べて難しいですから、その9条をダシにして「9条がなかった時代には、命の危険があっても負担することをやっていた」と言う事で、他人に危険や負担を追わせたいという事なのかもしれません。「9条がある時代」の「愛国者」。