平和のための犠牲論

2005-12-01
id:kwktさんが参加された高橋哲哉×萱野稔人トークセッションの内容。「犠牲」について興味深いところがあったので。

自らを国家の犠牲にするということが、日本の犠牲よりもはるかに多い犠牲をアジアに与えることとなった。国家への自己犠牲が他国に膨大な犠牲を生み出した。「犠牲」の一般性と特殊性を行きつ戻りつ絶えず考えていく必要がある。

時々、靖国擁護の文脈で「今の平和は英霊達の犠牲の上に成り立っている、英霊達のおかげだ」という論調を見かけるけど、あの戦争が今の平和の為の犠牲(コスト)だったとすれば、中国は、日本よりも多くの犠牲を、無理矢理連帯保証人として支払わされてしまったわけで、この手の犠牲論を持ち出してしまうと、なおさら中国に配慮しなければいけなくなるのではないかと思ってしまって、擁護論としての筋の悪さというか違和感みたいなものを感じてしまう。


「あの戦争は仕方なかった」という前提を突き通してしまうと、戦争に伴う犠牲も仕方ないということになってしまう。その「仕方ない」日本軍兵士の犠牲を「尊い」ものにする(物語の)ために、「今の平和」が必要になってくるということなのだろうか。