語り継がれる記憶〜7月1日のマル激から(2)〜

id:botticelliさんの10月20日付けの日記。

仲良くなった中国人学生にTちゃんという子がいたのだが、彼女と話していて驚いたのは、先の世界大戦が非常に彼女には身近に感じられていた、ということである。なぜか。

それは、彼女が小さいときに祖父母から戦争の経験談をよく聞かされていたからであった。その経験談のなかに、当然日本軍が行ったことも含まれていた。

さらに、現在の若い中国人の多くがそのように親戚から戦争の経験を聞かされて育っている、とも彼女は言っていた。


僕たち日本人の「日中関係をこれだけ込み入った問題にしているのは、中国の共産党政府による愛国教育なんだ」という主張は、間違っているだけでなく、当然中国人の気分をさらに害するものである。



また、昨日紹介した7月1日のマル激でも、宮台氏が、「江沢民体制での教科書が原因だというのは間違いで、中国人留学生でもマル激に来た人も言っていたが、やっぱり語り継がれている。語り継がれているから、教科書に書かれていることもリアルに受け止められている。どこに本体があるかを全く見過ごしている。」と、id:botticelliさんと全く同様の主張をしていた。


昨年のアジアカップの件や今年のデモに対して、マスコミを中心に、「江沢民体制で愛国主義教育が行われ、日本に対する悪印象を煽り立てた結果だ」という論調が非常に多かったし、今では殆ど既定の事実と化してしまっているかの様な感じだ。


しかしながら、中国における反日感情がそういった愛国主義教育の絡みだけでしか殆ど論じられないというのは、あまりにも単純化してしまっている。戦争の記憶は、公的領域だけではなく、私的な領域においても伝えられる。それは当たり前の話だ。僕だって、戦争当時10才だった母から、空襲の話や終戦の時の話を聞いた事がある。しかし、この様な当たり前の視点が、中国の反日感情に関する今の日本の論調からは殆ど見る事が出来ない。語り継がれた記憶によって起こされる自然的な感情としての「反日」は無視され、中国政府にとって植え付けられた人工的な感情としての「反日」だけが喧伝される。


今の日本の論調は、「戦争中に日本軍が来て行ったこと」を直視したくないばかりに、ことさら公的な領域(愛国主義教育)の話ばかり取り上げられ、私的な領域の話が軽視されているような気がしてならない。