物語としての歴史

id:bluefox014さんの11月15日の日記の感想。
物語を得るために自ら騙される、ということなのだろうか - クッキーと紅茶と(南京事件研究ノート)

それはおそらく、自らを騙した代償として彼/彼女らは「物語」を獲得できるからだ。その物語は彼/彼女らを「苦痛」から解放したり、その他もろもろの効用を有するのだろう(「その他もろもろの効用」の具体的内容については、別途考察を要する。deadletterさんの言う「政治的方便」など)。



青狐さんの文章は靖国と英霊に関する話だけれど、今更ながらの話かもしれないが、靖国に限らず、彼らにとっては日本の近現代の歴史それ自体が「物語」なんだろうなと感じた。「物語」だから、学問的史実よりも読者にとっての都合よさ、気持ち良さが優先される。
「アジア解放のための戦争だった」「南京大虐殺はなかった」「日本軍の軍規は非常に厳しかった」云々…。 


それは、青狐さんのブログで指摘されているように、苦痛から「慰撫」され「癒される」ためであったり、政治的な意味合いのためのものであったり、中国や韓国批判のためであったりするんだろうけど、たぶん共通しているのは、そのためには、この物語は真実の歴史であると思い込まないといけないという事なんだろう。


この物語がフィクションであることが露呈してしまっては、癒されるはずだった話が、「一杯のかけそばは作り話だった!」並みにしらけてしまうことになるし、「嘘の歴史を反日教育で教えている中国や韓国」という批判のための基本的な図式が崩れてしまう。


だから、この「物語としての歴史」は、学問的史実でないことを、さもそれが史実か最近の研究動向であるかの様に断言したり、また自分達の歴史が「真実の歴史」「本当の歴史」 「捏造でない歴史」であることを強く主張したりする。それはネットの中での言説でも見かけることができるし、本屋の歴史コーナーが一番一目瞭然なのかもしれない。「歴史の真実」を謳う本の多いこと。黄 文雄氏とか渡部氏とか。


もちろん、この様なつくる会歴史修正主義は前からあったわけだけど、反中とセットになってかどうか知らないが、さらに最近、ネットの中で拡大再生産されている様な気がするのは僕だけだろうか。気のせいならいいんだけど。