実際は100対5の話

恥ずかしい話なんだけど、高校生の頃、落合信彦の「20世紀最後の真実」を読んで、ユダヤ人は600万人殺されたのに戦後は人口が増えているという話を読んで本当はユダヤ人虐殺はなかったんだと間に受けていた時期があった。今で言う「南京市内には20万人しかいなかった」論と同じパターン。


当時の事を振り返って、何故まともに間に受けてしまったかと言うと、高校の世界史では現代史は殆ど急ぎ足だったし、「ナチスユダヤ人を大量に虐殺した」という事実関係しか習わなかったから、例え学術的にはお話にならない論理とかであっても、そういうのを持ち出されて主張されてしまうと、そちらの方が説得力があるように思えてしまうということだったんだと思う。


南京事件資料館さんにも引用されている、『アウシュヴィッツと(アウシュヴィッツの嘘) (白水Uブックス)』の

実際、頑迷なアウシュビッツ否定論者はどんな反論にも納得しない。 しかし問題なのは、自分に知識が不足しているがために、寛容な態度や公平な見方をしているつもりで、彼らの言うことにも一理あるかも知れない、と動揺する人々のほうである。

という言葉でいうと、物の見事に動揺してしまった一人だったんだな。


僕は、大学で歴史学を専攻したから、教科書に載っている一つの事柄の裏に、それこそ数多くの研究の集積(史料批判、研究者間の指摘・批判)があることを知っているけど、歴史学を専攻しないとあまりそういったことは分からない。


結局はそこに、歴史修正主義的な流れが跋扈する余地があるのだろうと思う。1の歴史的史実の裏にある100の史料や研究集積を知らないから、恣意的な5程度の史料らしきものを使った論説が幅を利かす。歴史修正主義者の論説を信じる人達は、もしかすると1(教科書・戦後教育)しか知らない周りの皆に比べて、自分は5(歴史の真実)を知っていると思っているのかもしれない。けど実際は100対5の話なんだよ。


僕は、いま中学や高校でどの様な歴史の授業が行われているか知らないけど、歴史の授業で実際の史料に触れてみる機会、歴史学的な手法に触れておく機会を作っておくべきだと思う。南京でもアウシュヴィッツでも、もっと事実関係が簡単な古代の事柄でも構わない。
実際100の史料がどの様なものか知らなくても、教科書に載っている物事にはそういう学術的営みを経ているものだと言う事がわかっておくだけでも、確信犯的な中国嫌いは別として、プリミティブに騙される人達はそれなりに減るだろうから。