「結論」が先にある人達



群馬県伊勢崎市議会議員伊藤純子:異論に「反論」

私の意見に賛成の方、あるいは反対の方もおありかと思われますが、誰が何を言おうと、私の抱く「ジェンダフリー思想による男女共同参画の危険性」に対する主張を撤回する意思はございません。たとえ、読者のあなたと私の意見が合わないとしても、所詮、あなたと私は思想が異なるのですから、見解の相違は仕方がないと思われます。



「伊勢崎のジャンヌダルク」伊藤議員の、批判コメント及びトラックバックに対する「反論」。上記の文章に続いて、寄せられた反論に対して「私は女性だけを非難した覚えはない。」とほんのお愛想程度に回答した後は、また彼女の自説が続くばかり。
いくつかのブログでも既に感想が述べられているけど、指摘されたことに殆ど答えていないし、「反論」の体をなしていない。


最初に「ジェンダフリー思想による男女共同参画の危険性」に対する主張を撤回する意思はございません。」と来て、後は説明にも反論にもなっていない文章が続く彼女の文章構成を見ると、「彼女にとっては『ジェンダーフリー思想による男女共同参画は危険だ』という「結論」が先にあって、その「結論」を導けるのであれば、後の理屈はどうでもいいんだな」と思わざるを得なかった。


もちろん、それは指摘するまでもないことだけど、この手の思考構造は彼女の専売特許でもなんでもなく、彼女が属している「新しい歴史教科書をつくる会」的歴史修正主義の主張の中にも、よく見受けられるもので、南京にしろ、過去の植民地支配にしろ、(彼らにとっての)「結論」がまず先にあって、彼らにとって都合の良い史料だけで、「結論」に向けた物語が作られる。
「結論」に都合の悪い史料はスルーだし、意図的なトリミングなどもあって、学術的な批判にはとても耐えられないものだけど、どの様な批判を受けても彼らは考えを改めようとはしない。


それは、彼らにとって、圧倒的に大事なのは「過去の日本は悪くなかった」という「結論」であって、そこに至る理屈は根本的にはどうでもいいからなのだと思う。彼らの理屈は、彼らの「結論」を主張するための単なる道具でしかないので、いくら妥当な批判をしたとしても、彼らの「結論」を変えるのは不可能に近い。全く無視するか、また違う理屈を持ち出して、同じ「結論」に持っていくだけの話だ。


彼女のブログを見ると、さすがに正会員なだけあって、いかにも典型的なつくる会的思考(つくる会脳?)をされているなと感じた。例え、どれだけ指摘や批判をしたとしても、彼女は、都合が悪い部分には全く答えず、「ジェンダフリー思想による男女共同参画の危険性」の自説を、同じ様に繰り返すだけだろう。思考パターンは全く一緒で、「自虐史観による戦後教育」という単語が「ジェンダー(フリー)教育」に入れ替わっただけ。


何故、つくる会周辺の人達が、自分達の歴史教科書の胡散臭さにも関わってくることなのに、ジェンフリ批判とかでトンデモ説を主張するのか不思議だったけど、考えてみればある意味当たり前の話だったのかも。