NYTの記事に関しての感想

id:traviesoさんの、麻生外相に対して批判的な記事を書いたニューヨークタイムズの記事に対する「また大西か」の反応についての記事を読んで色々と感じたことを。


http://d.hatena.ne.jp/travieso/20060214/p1

が、それより私が問題にしたいのは、日本のブロガーの「また大西か」といった態度である。


アイリス・チャンの『レイプ・オブ・ナンキン』が全米の図書館に寄贈される、されないといった「些細な」問題が、保守派にとってかつては一大事だったことを思い出せば、この反応とのギャップに戸惑ってしまう。


ノリミツ・オーニシ氏が偏見に基づいた記事を書いたとしても、それはNYTという有力な媒体に掲載されるし、またNYTのバイアスが英語圏の読者の話題にのぼっているとしてもNYTが有力な(非常に有力な)新聞であるという事実は依然として動かない(朝日新聞も同様)。



昔、学生だった頃に読んだ、喜国雅彦だったかの四コマ漫画を思い出した。竹下と金丸が女装しているところをマスコミに写真に撮られたのだけど、写真を撮ったのが東スポだったので、みんなが「何だ東スポか」という反応になって、問題にならなかったというオチ。


きっと、「また大西か」という言葉を発する人にとっては、その言葉は「何だ東スポか」という言葉と同じ意味なんだと思う。この記事はノリミツ・オーニシ氏が書いたものだから問題にするほどのものではない、そう思っているのだろう。


しかし、NYTは東スポではないし、traviesoさんの言うとおり、NYTが非常に有力な新聞であるという事実は動かない。NYTはアメリカの朝日新聞だと日本人が言ったところで、何も変わりはしない。
また大西か」という言葉を発する人にとっては、この記事は問題にならないかもしれないが、だからといって日本(の国益)にとって問題にならないかどうかは別の問題だ。


付け加えるなら、「また大西か」という言葉は、不快な情報を矮小化し、もしくは快いものに変えるための一種のキーワードなのではないだろうか。「米国で日本の評判が良くない」というのは不快な情報ではあるけれども、「大西」が発見された今では、NYTの記事については、それほど不快にならなくて済む。「大西」は「朝日」や「サヨク」と一緒なので、問題になるものではないし、むしろその「馬鹿サヨ」の行動を見ることは快いことなのかもしれない。不快な情報から快い情報への転化。


最近、南京の件が映画化されるという話があったけど、その反応は、このNYTの記事よりシリアスなものだったと記憶している。それは、その話には、「大西」などの便利な言葉がなく、不快な情報がそのまま入ってきたために、そういうシリアスな反応になってしまったのではないだろうか。


国益を考えるのであれば、日本と中国の関係冷却化が米国の懸念となりつつある様な状況下で、有力メディアにこの様に外相を批判される影響や今後の対策、また外相の適性について検討するべきであるのだろうと思う。しかしその様な大きな問題、複雑な関係は捨象され、その情報に接した個人単位での欲求(不快の矮小化、快い情報)がそれぞれ即座に求められる。言葉が適当なのかどうか判らないけど、この様な状況は、いわば「ナショナリズム動物化」と言えるのかもしれない。