「ホテル・ルワンダ」の件・続き

土曜日の記事の続きで、ありきたりだけど思ったことを。


偉大なる扇動者・町山智浩御大と「ホテル・ルワンダ」と虐殺を考えるブログ:「ホテル・ルワンダ」を見て のエントリについて - livedoor Blog(ブログ)

そして、町山氏の文章を読んで、大きな違和感を感じたのです。


違和感の原因は、前のエントリにも書きましたが、関東大震災時の朝鮮人虐殺について書かれた最後の一行でした。もしあの一文がなければ、氏の文章は特に印象は残らなかったと思います。
(略)
いろいろ考えはあるとは思いますが、少なくとも私は、パンフレットというのは、その執筆者が、その個人的な政治的思想を喧伝する場としてはふさわしくないものだと思います。



僕も「ホテル・ルワンダ」のパンフレットを買って、町山さんの文章を読んだけど、僕にはどう読んでも町山さんが政治的思想を喧伝しようとしているようには全く見えなかった。


町山さん自身もブログでその旨のことを書かれているけど、「日本でも関東大震災朝鮮人虐殺からまだ百年経っていないのだ」という文章は、「ルワンダと同じような状況になった時、あなたは隣人を守れますか」とのポール・ルセサバキナ氏の問いかけに続く文章で、「これはルワンダだけではなく、日本でも起こりうる事だ。(その時にあなたは隣人を守れるのか)」という意味合いにしか取れなかった。


それを彼女が、町山さんの文章を「政治的思想を喧伝する場」とあると思い、最後の一行を、「我々(在日)は被害者だ」と主張している様に思ってしまうのは、おそらく彼女が町山さんが朝鮮系であることを知っていて、パンフレットで町山さんの名前を見た時に、「この人は朝鮮系で、反日意識に凝り固まっている」という予断を持ったからだと思う。


そして、その偏見を持ったまま文章を読んでしまっているので、最後の一行に「ほら、やっぱり反日だ」と動物的に反応し、文脈からは読みようのない読み取り方をしてしまう。
(いみじくも、彼女自身が「仮にあれが町山氏の文章ではなく、実際に映画を製作した誰かが寄稿した文章の翻訳だったら、その意見に同調はしなくとも、そこまでの違和感は感じなかったかもしれません」と書いているけど)。


彼女が、町山氏の文章に寒気や違和感を覚えたのも、「政治的思想の喧伝する場」だと思いふさわしくないと思ったのも、映画の素晴しい作品の印象が損なわれたのも、町山氏に責任は全くなくて、自分自身の偏見のせいだという事に、彼女は全然気付いていない。


おそらく、「私はそうだった」という言葉を免罪符に、彼女は今後も善意の文章の中に悪意を見つけ、自らの偏見によって生まれた不快感を他者に転嫁し、更なる偏見や差別を再生産させていくのだろう。それって本当に悲劇的な事じゃないかと思う。


といっても、僕自身もまた、自分で気付かない偏見で文章を曲解したりしているのだろうから、彼女をそんなに非難できる義理じゃないのかもしれない。
渡部昇一氏とか八木秀次氏の文章を読むときとか、先入観入りまくっているし。だからと言って、両氏の言説を素直に受け入れるつもりもないのだけど。