敢えて断罪にコミットすること

なぜ「断罪」してはいけないのか? - Apeman’s diary
うん、断罪せよと言いたいわけではないです - good2nd
http://d.hatena.ne.jp/ittuan/20060902/p1
http://d.hatena.ne.jp/URARIA/20060903#p2


「現在の価値観で過去を断罪するな」という考え方について。色々考え方があるのだろうけど、僕はApemanさんの考え方に近いですね。


そもそも「現在の価値観で過去を断罪するな」という言い方自体がまず恣意的ではないかと思うんですよ。断罪して正義に酔ったり、高揚感を得るのは別に「過去」に対してだけに限らないわけですから。何で「時代」に対してのみ価値相対主義を持ち出すんでしょうね。


何が言いたいのかというと、自らの価値観に依拠して、価値観を共有していない他者を断罪しているのは、「戦前」でも「中国」でも一緒なんですよ。しかし、何故「現在の価値観で過去を断罪するな」という主張はされても、「日本の価値観で中国(の一党独裁)を断罪するな」という主張は殆どされないのか。


当たり前ですが、「断罪するな」論を声高に叫ぶつくる会系とかの人達は、戦前の日本を免罪しようとする気持ちはあっても、中国を免罪する気はさらさらないからです。価値相対主義に立つのなら、戦前だけでなく、中国にも寛容になろうぜ。Apemanさんの言うとおり、僕も「現在の価値観で過去を断罪するな」という言葉自体に「われわれの先人を免罪せよ」という欲望を見てしまいますね。


後、僕はアメリカ史専攻だったし、つい最近も猿谷要さんの西部開拓史 (岩波新書)を読んだばかりなので、「過去」という言葉を聞くと、ネイティブアメリカンへの大迫害を連想したりしますが、元々住んでいた土地を幾度と無く奪われ、滅亡の危機に瀕して、今でも様々な問題を抱えている彼達のことを考えると、僕はとても「現在の価値観で過去を断罪するな」という立場には立てないですね。この論理って何か宗主国の論理って感じがします。


「当時の価値観」って言ったって、「若者が年寄りに席を譲る」とかそんな生易しいものじゃなくて、それこそ何十万、(これもApemanさんが指摘されていますが)帝国主義や世界大戦で言うなら何百万、何千万という人達が犠牲になったわけですから。「当時は価値観が違ったのだから、ジャクソン大統領を断罪したり非難してはいけない」と言われたら、僕がチェロキー族の生き残りだったら、それは多分激怒しますよ。


ネイティブアメリカンの件に限らず、多大な犠牲を受け、その記憶を今でも有している人達に対して、まず僕達がすべきことは、醜悪であろうか、偽善であろうが、「過去の我々の行為を非難する」ことだと思ったりしています。というか、それしか方法はないような気がしますね。「過去の世代の過ちを何故我々が背負わなければいけないのか」という意見もありますが、そんなことを言っていたら、犠牲を受けた人達との和解や関係修復なんて始まりようがないですよ。僕も「敢えて断罪にコミットせよ」派です。


(追記)id:ittuanさんからトラバを頂きました。
http://d.hatena.ne.jp/ittuan/20060905/p1
僕の主張は確かに政治的ですし、仰られる事も理解できますが、読んでいて納得しきれない、溝みたいなものがありました。id:ittuanさんの視線が「歴史」に向いている一方、僕の視線が「犠牲者」に向いているという、視線の向き先の違いによるものなのかもしれませんが。


(追追記)再度考えてみると、id:ittuanさんの指摘にも関連することだけど、つくる会の人達を揶揄したいばかりに書いた、この文章の前段部分は書かれるべきではなかったか、違う書き方をされるべきであったと思う。僕は、犠牲者の為に自覚的に「政治的な振舞い」をすべきだと主張しているのだから、つくる会の人達が恣意的な主張(これもまた「政治的な振舞い」である)を行っている事自体を問題にしてはいけなかった。矛盾を指摘されても仕方の無い文章だったと思う。