web2.0と歴史修正主義

平野啓一郎さんの文章。佐藤亜紀さんとの揉め事の件についてだけど、歴史修正主義に対するふるまい方を考える上でも考えさせられる文章でした。
2006-09-15

しかし、web2.0的な世界はそうではない。そこで情報は、最早誰のものでもない匿名の言葉となり、匿名の知となって、世界中を駆け巡る。誤った情報を放置しておくと、単にそれが何時までも残り続けるというだけではなく、様々な人の手を経て増幅し、増殖する。クリックされる度に、検索サイトの上位に押し上げられ、コピー&ペイストでブログを行き来し、トラックバックで参照され、論評されたり印象が語られたりしながら、利用者の共通の認識として定着してゆく。

今日にまで至る長い人間の歴史の中では、不当な出来事に「巻き込まれた人間」が取り得る態度として、必ずしも消極的だというわけではなく、恐らくは、賢明であり、かつ有効なものと信じられていた。現実の世界の至る場所で語られていることに、いちいち反論して回るのは事実上不可能だったし、そのために人生の貴重な時間を費やすことが、無駄と感じられ、愚かしく見えたからである。しかし、それが「変わった」のである。

web2.0以降、「巻き込まれた人間」は、ただ黙っていても、状況を改善されず、それどころか、悪化させてゆくこととなった。重要なのは、その悪化が、必ずしも「悪意」によってもたらされるのではなく、情報に対する個々人の正当な行為の結果として、もたらされるという事実である。その状況を不当と感じるならば、自らが積極的に、新しい情報となる言葉を発しなければならない。それは、具体的な個々の情報をターゲットにして、論駁することよりも、むしろ、その情報を巡る言葉の「流れ」に作用することが期待されている。しかし、その行方は誰にも分からない。(中略)しかし、情報となる言葉を発しなければ、「正しいこと」であっても、100対0で敗北し得るのである。



南京事件否定論なんか特に、もはやネットにおける「匿名の知」であり「利用者の共通認識」と一部で化している様な懸念があります。歴史修正主義はノンフィクションを自称するフィクションであるが故に心地良いものであり、歴史に心地良さを求める人には、おそらくその言葉は通じないのでしょうが、100対0の敗北を避けるためにも、とりあえず情報となる言葉は発しないといけないのかもしれません。


前にも、歴史学者達がもっと声を上げないといけないのではないかと書いたこともあるけど、本当にもっと危機感を感じないといけない時期なのかもしれませんね。ネットなんていい加減な情報で満ち溢れていて、騙されるほうが悪いんだし、歴史学の研究動向には殆ど影響を与えないんだろうから、歴史学者の人達はネットなんか放っておいたらいいんじゃないかと時には思うのですが、ネットでの南京事件否定論の拡散ぶりを見ると、そんなに悠長な話でもない様な気がしますし。悩ましいですね。