日の丸が体現するもの

五・国旗焼却事件に関する判例


米国の国旗焼却事件に関する判例が掲載されたホームページ。君が代訴訟に関するサイトの1ページなので、政治的バイアスがかかっているのかもしれないけど、読んでいて結構感銘を受けてしまった。

我々は国旗への冒督行為を罰することによって、国旗を聖化するものではない。これを罰することは、かえってこの大切な表章が象徴しているところの自由を希釈してしまうことになるからである。

国旗は、これを侮蔑視する者さえも保護するものなのである。こう述べるのは、辛いことだが、大事なことである。

社会がその思想それ自体を不快な、もしくは同調できないものと考えるからと言って、単にそれだけでは政府がその思想の表現を禁止することはできない、ということなのである。国旗損壊を処罰することは、国旗が尊重され、かつ国旗を尊重するに値するものにしている、自由そのものを稀釈することとなる。



僕は、国旗や国歌というものにあまり敬意を持っていない方だと思うけれど、それでも、上の「国旗は、これを侮蔑視する者さえも保護するものなのである」という様な言葉には、ちょっとした感動を覚える。もし、国旗が尊いものであるとするなら、それは、国旗に敬意を表しなかったり、または侮蔑したりすることすらも含む「自由」を体現するものであるからであって欲しい。


でも、多分日の丸はそういう旗ではないのかもしれないな。日の丸は「少数者の思想・良心の自由」よりも優先される「マナー」「礼儀」という圧力を体現する旗なのかもね。読売新聞の社説とかネットでのいくつかの反応を見ると、思わずそう感じてしまった。マナーという理由でとりあえずの敬意を強要される旗。