エゴとエゴのシーソーゲーム

今更になってですが、優越感ゲームという単語を知りました。


「優越感」という単語を聞くと、洋楽好きだった兄のことがまず頭に浮かびます。学生時代、ニルヴァーナとかMR.BIGとか洋楽ばかり聞いていた兄は、日本の音楽を結構馬鹿にしていました(ニルヴァーナとかも十分有名でありがちなんですけどね)。洋楽を聞いていた人で、邦楽を聴く人に対する優越感を持っていた人って結構いるんじゃないでしょうか。


その兄も、てっきり洋楽を聴かなくなって、今はサンボマスターとかを良く聴いているみたいです。前に会ったときに、「日本語ロックに目覚めた」とか言ってました。多分、彼は優越感の階段を一つ上ったのだと思います。「未だに洋楽を聴く人は古い」とか思っているのかもしれません。


で、その兄を見て、あまり音楽好きではないですが、洋楽も邦楽も聴いている僕はこう思ったりするわけです。「洋楽であろうが、邦楽であろうが良いものは良い。日本語ロックとかにこだわっている時点でダメ」。これもまた一つの優越感ですよね。俺は「洋楽」とか「邦楽」とか、カテゴリーに拘ってないぜって言う。


考えて見ると、自分がブログしているのも、大分「優越感」が関係しているのだろうな、と思います。僕が、色々とブログでリベラルっぽいことを書くのも自分は進歩的だという優越感、自戒している様な文章を書くのも、俺は自省できる人間だという優越感、自分がブログで文章を書くのに「優越感」が関係していると気付いている優越感…。


ミスチルの歌じゃないですけど、優越感ゲームという単語って、どちらが上かを競う「エゴとエゴのシーソーゲーム」っていう感じがしますね。接戦という意味だけでなく、遊具のシーソーのイメージも含めて。自分が上に立とうとして延々と地面を蹴り続けるゲーム。