「どちらでもおかしい」論

以前に、昭和天皇靖国メモが出てきた時に、偽物だという証拠として「白鳥を白取と誤字をするのはおかしい」とか「不自然過ぎる文章だ」と主張がされた事がありました。


その主張の是非はともかくとして、誤字がなかったらなかったで、「富田氏は既に60を過ぎた老人なのに、誤字が全くないのはおかしい」、理路整然な文章だったら文章だったで、「人の発言というのは普通そんなに理路整然とはしていない、おかしい」と主張することが可能だなと、僕はその時思ってしまいました。逆でも同じことが言えるんじゃないかと。


何かしらの否定論や陰謀論には、たとえ物事がどうであったとしても、否定や疑問の理由に使えるような主張が結構含まれている様な気がします。「どちらでもおかしい」論と勝手に名付けてますが。


「時間」や「タイミング」というのも、どうであっても否定や疑問の理由として後付けで使える典型的な例なのかもしれません。「何故この時に報道された(されなかった)のか」と、問われる様なパターン。南京事件否定論であれば、(実際はどうだったかは別として)「なぜリアルタイムで報道されなかったのか」となりますし、靖国メモ偽物説では、「何故この時に報道されたのか→インサイダー事件の取調べ当日で、それを誤魔化すための日経の策略」となる。


もちろん、「どちらであっても正しい」と主張するという、逆の場合についても全く同じことが言えるわけで、僕自身、色々とある物事については肯定し、ある物事については否定しているわけですが、結局気をつけなければいけないのは、自分にとって望ましい結論を先に決めておいて、物事をそれにあわせて、自分に都合よく(無節操に)解釈してしまうことなんだろうなと思います。と言いつつ、僕も絶対やってしまっていそうですが。


ただ、さすがに議論の最中で、「どちらでもおかしい」と言ってしまうのは、禁じ手というか、やらない方がいいと思いました。「証拠がないのがおかしい」と言っておいて、反証が示されたら「(状況を考えると)証拠がちゃんとある方がおかしい」と言ってしまったら、傍目に見て「(議論以前に)どうであっても否定するつもりなんだな」というのが丸わかりですしね。他人への説得力を大分失ってしまいます。