失敗すれば「現場」のせい?

ˆÀ”{“àŠtƒ[ƒ‹ƒ}ƒKƒWƒ“ ‘æ‚U† `“ú•Ä–ì‹ ‚ÌŽn‹ Ž®(2006/11/16)`

 これが新しい教育基本法の意味なのです。最近起こっている問題に対応していくために必要な理念や原則は、政府の改正案にすべて書き込んであると思っています。公教育の再生や教育委員会のあり方など、具体的な教育政策を今後検討する上でも、一刻も早い改正案の成立を願っています。



僕の母校が独立行政法人化されそうで、その関連のシンポジウムに行けたら行こうかとも思っているのですけど、法人化された後、なんか「旭山に見習え!」メソッドが使われそうな気がしてなりません。


旭山動物園は確かに地域再生の手本かもしれませんけど、世の公的施設や商店街が、全てそのお手本どおりに復活できるわけではないですよね。僕の街や府県にも、現場の努力以前の問題で、需要自体が始めから全くなさそうな施設があります。こんなの始めから作るなよという様な施設。


それを旭山動物園の様な、現場の努力で成功した例を持ち出すことにより、需要を過大に見積もってその施設を建築した政策的失敗や、構造的な問題が糊塗され、「(成功している例もあるのに)客が入らないのは、現場の人間の創意工夫が足りないからだ」と現場の職員の努力不足に短絡的に責任を帰せてしまう。僕の職場でも「旭山に見習え!」っぽい雰囲気が上の方から流れてますが、何かそんな裏を感じとってしまいます。


僕の母校の、大学「改革」に名を借りた法人化が成功するかどうかはわかりません。ただ、成功した時は「改革」のおかげになるけれど、(入学希望者が減るなど)成果が出なかったときは「現場」のせいになってしまうのがありがちなパターンなんでしょうね。「現場の意識改革が進んでいない」とかのありきたりの言葉がおまけについて。本当は、下らない名前の学部にした大学当局やトップのセンス改革が進んでいないのかもしれませんが。


いじめとかの問題が、今回の教育「改革」でマシになるとは、僕にはとても思えませんが(酷くなるとも思いませんが)、やっぱりその時も悪いのは現場だという事になってしまうのでしょうか。問題対応のための理念や原則を改正法に書き込んでいるのにも関わらず、問題が改善しないのは、現場の教員がその理念や原則に従っていないからだ。そんな理由が持ちだされそうな気がします。そもそも、改正法に書かれた理念や原則自体が、問題解決のためには、的外れなものかもしれないのに。


そう言えば、やらせ問題でも「現場に行き過ぎがあった」とか言い訳をしていましたよね。「日教組」という便利なものがある教育改革ですし、それこそ遠慮なく現場=日教組のせいにされてしまうのかもしれません。