「行き過ぎでなければ」とか「愛があれば」とか

力士死亡でわかったのは「多少の暴力ならOK」という人の多さ - good2nd

なんか「多少厳しく指導することは当然ある(が、この事件は行き過ぎ)」とか言ってたりして、それって「暴力自体は普通にあるよ」と堂々と言っちゃってるんですけど…。大怪我とか死亡とかにつながりさえしなければ、暴力そのものは否定しないよ、ってことでしょ?

この事件と違って「愛のある体罰」もあるって?でも指導者と指導される側とは非対称な関係なので、愛があろうがなかろうが「強い立場の人間が弱い立場の人間に暴力を振る」という構図は一緒だよ。



暴力も問題ですけど、この「行き過ぎでない厳しい指導はOK」「愛があればOK」という意識って、大相撲に限らずありますよね。


僕の勤め先は、結構上司のパワーハラスメントの被害に会う人が多い職場で、僕も一時期被害にあっていたのですが、パワハラが多い職場だけあって、やっぱり社内の雰囲気が寛容なんですよ。酒の席とかで他の上司に愚痴っても、「あれだけ厳しく指導してくれる人はなかなかいない」とか逆に言われたりしました。「指導してくれる」。本人にはとっては苦痛でしかないハラスメントが、逆に好意的な(=愛のある)恩恵として社内で評価されてしまっている。


この様な、体罰に代表される「厳しい指導」容認論には、「厳しい指導があるからこそ成長する」という意識が裏にあるんでしょうね。前述の酒の席の人も、「君の為の指導なんだから…」という感じでしたし、大相撲関連でも「その様なしごきに耐えてこそ、強くなる」というニュアンスの主張を報道とかで見かけます。体育会系精神論。


僕は、その様な考えには殆ど賛成できませんし、本人にとって苦痛な「厳しい指導」なんて、出来る限り減らした方がいいに決まってると思います。厳しく指導しようがしまいが、成長する人はするし、成長しない人はしないですよ。僕の周りでも、自分含めてパワハラに遭遇した人って、萎縮してしまって本人の能力を出し切れていないし、とても成長している様に見えないです。


体罰や暴力をふるうにしろ、ハラスメントまがいの指導をするにしろ、それを「愛のある」とか「本人の成長の為」という文脈を持ち出して欲しくないですね。大相撲の件でも、時津風部屋の人達が自分達の行為を、単なる暴力でリンチだと思っていたら、まだ自己抑制もされていたんじゃないんでしょうか。それを、美しい言葉で正当化してしまうから、やましさや後ろめたさが減って、行為が抑制されずエスカレーションしてしまう。今回の暴行事件を見てると、かの連合赤軍のリンチ(総括)を思い出させるんですよね。


「愛のある体罰」と今回の事件は違う、という相撲関係者の主張も見かけますが、僕には何処か同じというか、連なっているように見えて仕方ないです。