自己の責任ではどうしようもない事に対する自己責任

今回のアフリカ関連の話題でもいくつか見かけましたが、社会的に不幸な境遇の人達に対して「社会や他人のせいにするな、努力しろ」という意見を時々見かけます。


その不幸な境遇が自ら招いた場合であれば、まだ理解の余地はあるのですが、家庭の事情やら病気やら、自分の責任ではどうしようもない事柄についてもその意見が主張される場合があって、それが僕にはどうも納得できません。不幸な境遇から抜け出すには、他人に期待するより自分が行動する方が確かに現実的なのでしょうが、でも社会や他人のせいにするなというのはおかしいのではないかと思います。社会や他人が悪ければ悪いと言えばいい。


前にも少し書いたことがありますが、僕の家は母子家庭で経済的に余裕がなかったので、行っていた公立高校では学費を免除してもらっていましたし、また、地元の公立大学育英会奨学金で行っていました。その様な当時の僕が今にいたとして、例えば、学費免除や奨学金について、さらなる配慮を求める声をあげたとして、それが目立ったとしたら、一部で「貧乏なら夜間の高校や大学に行け」「高校や大学は別に義務教育でない」という、反応が返ってくるように思います。その様な反応は、今までもネットで数多く見てきました。


貧乏なのに私立高校に行ったのが悪い、義務教育でない大学に貧乏なのに行っているのが悪い。家庭の経済的事情という自分の責任ではどうしようもないことに対して、適切に行動しなかった事に対する自己責任が問われるのです。本当に自己責任を問うのなら、自分の責任ではどうしようもない事柄について、配慮があって当然だとも思うのですが。


そして、往々にして責任を問う側は、その様な行動を求められる状況になっていないおかげで、責任を果たさなくて済んでいるのです。「夜間の大学に行け」と言っている人達の多くは夜間の大学に行かなくて済んでいるし、「義務教育でない」と言っている人達の多くは、教育を受けさせる義務が親にないにも関わらず、親に学費を出してもらっているわけです。学費を自分で払っていなかった人達が、学費を払えないと声を上げる人を責める。個人的に少し理不尽な思いがするのですが、そう感じるのは僕だけなのでしょうか。


そうやって挙がってくる声を叩きつぶして、身の程をわきまえて、貧乏な家庭は夜間の高校や大学に行く、義務教育でないから進学を諦める、という社会になって、果たしてそれが良い社会なんでしょうか。社会や他人のせいにせず黙っていたら、貧乏な家庭の子供は、僕がそうだった様に、選択肢を制限されたままです。社会を良くする為にも、その様な「社会のせい」にする声には寛容でいたいなと思います。