ニーメラーさんの皮肉

鏡の中の石原慎太郎 - シートン俗物記

この詩において、「規制反対派」は自分たちを詩の中の“共産主義者”、つまり最初の被迫害者に擬えているようだ。つまり、「他人事だと思うなよ。自分たちだってそうなるぞ」と。
しかしだね。実際には、「規制反対派」は“私”、に擬えられる存在なんだわ。
もう既に石原慎太郎によって攻撃された人々はいるのだから。



ニーメラーさんの詩が持ち出される時、多くの場合は自分を最初に攻撃された「共産主義者」だと見なしているわけですが、詩に出てくる「ナチ党」の様な存在は攻撃が大好きな人達ですから、大抵は既に今までにも他者を攻撃してきています。石原都知事の例で言えば、彼の都政の教育・青少年施策に限定しても、養護学校における性教育君が代を演奏しない教師等、攻撃の実例を挙げる事ができますし、限定しなければ更に多くの実例を挙げる事ができるでしょう。


その様に他者が攻撃されてきた中で、自分を最初に攻撃された「共産主義者」として、ニーメラーさんの詩を引用すること、そのことが、自分がそれまでの「ナチ党」の他者への攻撃に無関心で、何もしなかった「私」であったことを告白してしまうという、皮肉な状況がある様に思いました。ニーメラーさんの詩を引用することで、ニーメラーさんの詩を完成させてしまう。


ニーメラーさんの詩をオリジナルの「私」の後悔の文脈以外で使うとするなら、自分が他人のために動くことの理由(「私」が「共産主義者」のために動く理由)として使いたいと個人的には思います。他人が自分のために動くことを要求するためではなく。